フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


発明奨励金の交付

邦文写真植字機の開発に取り組みはじめてからの研究費や材料費、工員の給料などは、すべて石井家のふところでまかなわれていた。いくら茂吉に蓄えがあったといっても、わずかばかりの米屋の商いが唯一の収入源とあっては、資金が枯渇するのもむりはない。

写真植字機研究所が急速に窮乏におちいっていくなか、ひとすじの明るい光が差した。茂吉が1927年度 (昭和2) に申請した発明研究費補助金が認められ、1928年 (昭和3) 春、商工省から3,500円の発明奨励金が交付されたのだ。[注1] 本連載第36回でふれたように、当時、写真植字機研究所の工員の月給が35円、750円で「一戸建ての家が買えるほどの金額」である。3,500円の奨励金はかなりの金額であったことがわかる。

  • 『帝国発明協会沿革略 昭和4年10月』に記載された、石井茂吉に発明奨励賞の交付が決定した記事。昭和2年度の欄に記載されているが、『石井茂吉と写真植字機』などの写研の資料を見ると交付は1928年 (昭和3) 春となっているので、おそらくは昭和2年度末の3月ごろに交付されたとおもわれる。(帝国発明協会 編『帝国発明協会沿革略 昭和4年10月』帝国発明協会、1929 pp.105-106より/国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1242207 2024年2月7日参照)

この奨励金は商工省の依頼により、帝国発明協会発明調査委員が調査・選定した推薦にもとづき交付されたもので [注2] 、邦文写真植字機の価値がおおやけに認められたことはうれしい出来事であった。しかし写真植字機研究所の経済状況にとって、もはやこの3,500円も焼け石に水に過ぎなかった。[注3]

  • 発明奨励賞交付通達書。1928年 (昭和3) 春に商工省より交付された (『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.99より)

来ない注文

1927年 (昭和2) 春、政治家の失言をきっかけに金融不安が表面化し、日本は昭和金融恐慌におちいっていた。いっぽう出版・印刷界では、1926年末ごろから改造社が1冊1円の『現代日本文学全集』の刊行を始めて「円本ブーム」が起こり、1927年 (昭和2) 7月には岩波文庫が創刊されて、むしろ活況を呈しつつあった。しかしそうしたなかでも、未知なる機械である邦文写真植字機を使ってみようという人はそうは現れず、機械の注文は1台もないままだった。

写真植字機研究所の運営を支えていたのは、茂吉の妻いくだった。神明屋の商売、写真植字機研究所の経理や労務面の管理、ほとんどが住み込みだった研究所員、工員の食事や身のまわりの世話。さらに、工場内の采配や外部との折衝……。ひたすらに研究に打ち込む夫の代わりに、これらすべてをおこなうばかりでなく、高血圧で寝たきりの義母や子どもたちの面倒も見なくてはならなかった。[注4]

  • 大正末~昭和初期ごろの写真植字機研究所の工員の一部と一緒に。後列左が信夫、右が茂吉、中列左が伊沢、右が阿武木、前列左が山本、右が鶴田 (森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.18より)

「それも貧乏苦労と一緒にやってたんですから、そりゃ大変」「2本の手を2本に使うならだれでもできる。2本の手を3本に使うのよ」

のちに80歳のいくが、裕子と不二雄ふたりの子どもに語ったように [注5]、このころの彼女は決しておもてには出ず、しかし実際には「2本の手を3本に使う」活躍で、茂吉と信夫の研究を支えた。まさに身も心も休まる暇のない忙しさだった。

やがて、ときおり金策に出かけることも、茂吉の仕事のひとつとなった。いくに促されたのである。いかな研究一途の茂吉でも、いっさいを切り盛りしてくれる いくに頼まれては、出かけないわけにはいかなかった。とはいえ茂吉はそうしたことが苦手だったから、足の向かう先はもっぱら親戚の家である。何度にもわたり親戚宅をたずねては、いつ返せるともわからぬ金の用立てを頼んだ。

1927年 (昭和2) のおわりごろには、親戚からの借財は3万円を超えていた。しかし親戚たちは、茂吉が「金を貸してもらえませんか」と頭を下げにいくと、いやな顔ひとつ見せずに用意してくれた。その好意に、茂吉は自分の仕事の責任の重さをあらためて感じた。[注6]

  • たび重なる借金でたまった借用証書と利息金受取書 (『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.101より)

実際、周囲のひとびとの茂吉への信頼は厚かった。義弟の石神与八による、こんな手記が残っている。

〈写真植字機の研究に努力されるようになった大正末年ごろ、わたくしの父は茂吉様に一万数千円の用立てをさせていただきました。ところが五年たっても六年たっても、ご返金がありませんでした。その当時の金額としては大金でありましたので、わたくしが父に「一度督促してみたら」と申しましたら、父は「茂吉様はお金があれば必ず返す人だ。いましばらくだまっていよう」と申しました。それから数年後、利子をつけて全額返済していただいたのですが、このときは深く恥じ入ると同時に、父にあのようなことを言ったことを後悔いたしたことでございます。そのころの石井家のご苦労はたいへんなもので、研究はもとより、工場の内外面にわたる経営から生活費の心配まで、全部をきりもりなされて、世の荒波と戦われ、日夜奮闘されていたお姿には頭が下がるばかりでした。〉[注7]

いくの奔走

3回、4回と重ねて頼んでも、石井家の親戚はこころよく金を貸してくれた。しかしそれでも、写真植字機研究所の月々の支払いは滞りがちだった。一度でも滞れば、写真植字機の開発は後戻りしてしまう。それをおもうといくは、支払先に「待ってください」とはとても言えなかった。

毎月下旬に差しかかると、あてのない月末の支払いをおもい、いくの胸は痛んだ。「なんとかなるさ」と鷹揚にかまえる茂吉の様子を、はがゆくおもいもした。借入先のあてを探して下話をつけるのは、結局はいくだった。金策に出かけた茂吉が円滑に金を借りることができた裏には、茂吉の人柄への信頼ももちろんあったが、いくの隠れた奔走があったのだ。

いくに支えられていたのは、信夫も同様だった。〈これら試作機を作る間の経費は、石井とその夫人が人知れぬ苦労を重ねて捻出しており、森沢はいまもその苦労は推察にあまりある―と首 (こうべ) を垂れている〉[注8] 。彼は後年、感謝を語った。

(つづく)


[注1] [注2] 衛藤俊隆 編『帝国発明協会沿革略 昭和4年10月』帝国発明協会、1929、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1242207 ( 参照:2024年2月7日 )pp.105-106
帝国発明協会の記録を見ると、記載されているのは石井茂吉の名前のみ。よって、申請は茂吉がおこなったと判断した。
なお、「写真植字機械いよいよ実用となる」『印刷雑誌』昭和4年9月号、印刷雑誌社、1929 p.4 によると、この発明奨励金は、〈矢野道也博士と、当時の東京高等工芸学校長松岡寿 両氏の推薦に依って、発明協会の認むる所となった結果であった〉とある。

[注3]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.100

[注4] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.100-102

[注5] 「親子三人」『朝日新聞』1973年5月27日付

[注6] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.100-102

[注7] 石神与八 (マルヨ質店店主) 「質素で至誠通天の人」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.218-219

[注8] 日刊工業新聞編集局 編「写植に生きる 森沢信夫」『男の軌跡 第五集』にっかん書房、1987 p.189

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
産業研究所 編『わが青春時代 (1) 』産業研究所、1968
日刊工業新聞編集局 編『男の軌跡 第五集』にっかん書房、1987
「親子三人」『朝日新聞』1973年5月27日付
「邦文写真植字機遂に完成」『印刷雑誌』大正15年11月号、印刷雑誌社、1926
「発明者の幸福 石井茂吉氏語る」『印刷』1948年2月号、印刷学会出版部、1948
帝国発明協会 編『帝国発明協会沿革略 昭和4年10月』帝国発明協会、1929

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影