コンピューターで画面に文字を表示したり、印刷したりする際になくてはならない「フォント」。さまざまなベンダーから多彩なフォントがリリースされているが、その多くは文字の太さ(ウェイト)や幅ごとに個別のファイルが用意されており扱いがめんどうだった。そこで2016年に登場したのが、単一のファイルでウェイトや幅などを自由に調整できる「バリアブルフォント」だ。
欧米ではすでに多くのバリアブルフォントがリリースされているが、日本などアジア圏では文字の種類が膨大で複雑なこともあって開発に手間やコストがかかり、これまであまり普及が進んでいなかった。
そうした状況を変えそうなのが、2021年4月8日にアドビが正式発表した「源ノ角ゴシック VF(英語名:Source Han Sans Variable)」だ。今回は、その特徴やメリット、開発エピソードを、アドビのシニアフォントデベロッパーである服部正貴氏とザックリー・シューレン氏に伺った。
ウェイトや字幅を無段階に調整できるバリアブルフォント
通常のフォントの場合、異なるウェイトは別々のファイルで提供される。なかには極細から極太まで10種類前後用意されている書体もある。アドビがGoogleと共同開発したスタティックフォント(※1)版の「源ノ角ゴシック」の場合は、ExtraLight、Light、Normal、Regular、Medium、Bold、Heavyの計7ウェイトがあり、全種類を使いたい場合は7つのフォントファイルをインストールする必要があった。
※1:ウェイトが固定された従来型のフォント
しかしバリアブルフォント版の「源ノ角ゴシック VF」では、これらのフォントファミリーがひとつのファイルにまとめられている。しかもウェイトを7段階ではなく無段階に変更できるのが大きな特徴だ。服部氏によれば、その原理はいたってシンプルとのこと。
「Illustratorのブレンド機能のように、2種類のアウトラインデータをもとに補間しながら中間の形を自動的に作り出す仕組みになっています。源ノ角ゴシック VFの場合は変更できるのはウェイトのみですが、規格的には字幅や傾斜角などのパラメーター(バリアブルフォントでは『軸』と呼ばれる)も変更可能です」(服部氏)
たとえば欧文書体の場合、ボールド(太字)やイタリック(斜体)、ワイド(幅広)、コンデンス(※2)などさまざまな派生スタイルがあるが、バリアブルフォント化することでこれらをひとまとめにすることも不可能ではないというわけだ。それだけではなく、アイデア次第では既存の枠にとらわれないフォントを作ることもできるという。
※2:基準の書体と比べ、横幅が狭いもの
「実際、タイプデザイナーによっては、この仕組みを利用して独創的なフォントの開発を模索している人もいます。たとえば、ルービックキューブをモチーフにした立体パズルのようなフォントとか。軸の調整に合わせてキューブがクルッと回るんですよ。試作段階のものを見る機会があったのですが、こんなこともできるのかと驚きました」(シューレン氏)
こうした多様なスタイルや表現を内包できるにもかかわらず、ファイルサイズが比較的小さいのもバリアブルフォントのメリットだ。
「スタティックフォントの場合はウェイトや字幅の数だけアウトラインデータが必要になりますが、バリアブルフォントの場合はそれぞれ上限値と下限値の2種類があればよく、その中間値のデータはほぼゼロになります。そのため無段階で調整できる割にはフォントファイルのサイズが小さくてすむのもメリットですね」(服部氏)
源ノ角ゴシックを例にあげると、日本語のほか韓国語、簡体字中国語、繁体字中国語(台湾)、繁体字中国語(香港)をカバーするフルセットの場合、スタティックフォント版の合計は593.7MBにもなるが、バリアブルフォント版はわずか32.9MBですむ。そのうち日本語の表示に必要なデータのみを抜き出してサブセット化したものは、スタティックフォント版の合計が32.1MB、バリアブルフォント版が8.1MBとなっている。
ちなみに、日本語サブセットをさらに圧縮率の高いWeb向けのWOFF2形式にするとファイルサイズは4.1MBまで減る。Webサイト内で複数のウェイトを使う場合、これまでよりサーバーへの負荷をグッと軽くできるというわけだ。ユーザー側から見た場合、Webフォントを表示するときの通信容量が減る効果もあるため、Webフォントを駆使したWebページの高速な表示が期待される。なお、現在の主要なブラウザはWOFF・WOFF2対応済みなので、ユーザー側は特に意識せずに利用できる。
構想25年以上、やっとリリースにこぎつけた「源ノ角ゴシック VF」
スタティックフォント版の「源ノ角ゴシック」は2014年7月にオープンソース書体としてリリースされている。バリアブルフォント版はそれから4年ほど後の2018年末に開発がスタートした。しかし、服部氏によると構想自体はもっと古く、25年以上前にまでさかのぼるという。
当時、アドビは電子文書ファイルの「PDF」とその編集・管理ソフト「Acrobat」の日本語対応を進めていたが、大きな障壁となったのが文書表示のためのフォントだ。欧文の場合は現在のバリアブルフォントの原型となった可変フォント「マルチプルマスターフォント」を使うことで、文書で使用されているフォントがユーザーの環境になくてもそれに近い字形を擬似的に生成して表示できていたが、日本語環境では同様のフォントがないため対応を果たせていなかった。
「そこで、アドビオリジナルの日本語フォントを開発するチームが作られたのです。しかし当時の技術やパソコンの処理能力では可変する日本語フォントを実現できず、結局開発を断念することになりました。このとき検討されていた日本語フォントは、最終的にスタティックフォントの『小塚明朝』として世に出ましたが、入社してすぐ同プロジェクトに携わってきた私にとって開発中止は大きなショックで……。それから20年以上たって再び可変フォントを作ろうという話が出てきたとき、『今度こそ製品化しよう』と強く思いました。そのため、源ノ角ゴシック VFの実質的な開発は1年もかかっていないのですが、気持ちとしては25年以上かけている感じですね(笑)」(服部氏)
源ノ角ゴシックをバリアブルフォント化する作業が具体的に始まったのは、シューレン氏がアドビに入社して開発プロジェクトに加わってからだったそうだ。
「源ノ角ゴシックはすでにスタティックフォントとしてリリースされており、ExtraLightからHeavyまでのマスターデザインがあったので、バリアバルフォント化すること自体はそれほど難しい作業ではありませんでした。しかし、日本だけでなく、韓国や中国、台湾、香港のグリフ(文字や記号などの字体)もあって収容グリフ数は65,000を超えます。そのため通常のフォント開発に比べると時間はかかりましたね」(シューレン氏)
膨大な作業量以外にも、フォントのファイル形式の問題があった。現在普及しているファイル形式はTrueTypeと、その発展型とも言えるOpenTypeの2種類があるが、バリアブルフォントは基本的にTrueTypeベース。しかし源ノ角ゴシックはOpenTypeを採用している。TrueTypeに関しては市販のフォント作成ツールも対応しており、バリアブルフォントを作りやすい環境にあったが、OpenTypeでの事例はまだほとんどない状況だった。
「とくに日本語に関しては、まだ誰もOpenTypeでバリアブルフォントを作ったことがない状況でした。そのため実際に作り始めてから、問題が多々発生しました。それをザックリーさんがエンジニアリング目線で社内のフォント開発ツールに修正を加えていくなどして、ようやくここまでたどり着いたというのが現状ですね」(服部氏)
ファイル形式だけでなく、アプリやOS側の問題も少なくなかったという。
「Windows 10でのバリアブルフォントの対応に関しては、マイクロソフトと1年間くらいやり取りを続けて調整してきました。最新の更新プログラムを適用すると別の問題が出てきて、それを修正して、の繰り返しでしたね。現行のmacOSはバリアブルフォントの対応がかなり進んでいますが、まだ一部に問題は残っています。たとえば、アプリで表示はできてもウェイトを無段階に調整する術がなかったり。IllustratorやPhotoshopではスライダーでウェイトをシームレスに調整できるようにしていますが、今のところそういった機能を搭載していないアプリがほとんどですから。バリアブルフォントのメリットを十分活かせる環境が整うには、まだまだ時間がかかりそうです。今回のリリースがきっかけで改善が進むと嬉しいですね」(シューレン氏)