フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


予期せぬ計画

東京の写真植字機研究所を離れ、1938年 (昭和13) に大阪でふたつめのネジ工場・森澤ネジ製作所を立ち上げて以降、信夫はつぎつぎとネジ製作機の改良や発明をおこない、ネジ製造業に邁進していた。しかしその時代は、日本が軍事色を強め、戦争へと向かっていく時期でもあった。

1931年 (昭和6) 9月、満州事変が勃発。翌1932年 (昭和7) には、日本の影響下にある傀儡 (かいらい) 国家 [注1]・満州国が中国東北部に建国された。同年、満州国建国に消極的だった当時の首相・犬養毅が、海軍青年将校や右翼団体の関係者らによって暗殺される五・一五事件が起こり、政党内閣の時代は終焉をむかえた。1933年 (昭和8)、日本は国際連盟を脱退し、軍国主義化がいっそう進んだ。日本は中国とたびたび武力衝突をくりかえし、ついに1937年 (昭和12) 7月、全面的な日中戦争へと発展した。

そして1941年 (昭和16) 12月、太平洋戦争が開戦。この時期、日本国民の多くは泥沼化する日中戦争による閉塞感を抱えながらも、戦場の現実や犠牲をじゅうぶんに理解しないまま、太平洋戦争初期の戦果に士気を高揚させていた。

そんな1942年 (昭和17) ごろのある日、信夫のもとに石川郁二郎がたずねてきた。石川は、信夫のネジ工場 (大阪・西成区津守) の元所有者で、1913年 (大正2) に岩城塗料製造を創業、水性塗料の国産製造に大きな功績をのこしたひとである。津守のネジ工場は、もともとは岩城塗料の津守工場だったが、1937年 (昭和12) に岩城塗料が関西ペイントと合併し、関西ペイント株式会社カセイン塗料部と改称したことにともない、おそらく空き工場になっていた。それを信夫が借りたのだ。当時の石川は関西ペイント取締役として、カセイン塗料部を担当し「水性塗料の世界制覇」の使命に取り組んでいるところだった。[注2]

石川は信夫に「ぜひ紹介したいひとがいる。会ってくれないか」と言った。いったいなんの用件だろうと訝しがりながら、石川に連れられて行くと、村川善美という男がいた。年のころは50歳手前。1895年 (明治28) 生まれで信夫より6歳上の、彫りの深い顔立ちをした男だった。聞けば、上海から来たという。

  • 上海からやってきた村川善美 (1895-没年不明)

    上海からやってきた村川善美 (1895-没年不明)
    満蒙資料協会 編『満洲紳士録』第3版、満蒙資料協会、1949 (昭和15) 3版 p.1742より
    国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1687713/1/931 (2025年1月25日参照)

村川は、早くから中国での仕事に志を抱き、上海にあった日本の大学・東亜同文書院 (東亜同文会設立) を1919年 (大正8) に24歳で卒業。同時に久原商事に入社し、上海支店に勤めたのち、1921年 (大正10) に独立して久孚洋行という貿易商を創設、順風満帆に躍進した。さらに1936年 (昭和11) には製造工業に進出すべく、亜細亜鋼業廠を創設。上海河間路に1万坪の大工場を建て、翌1937年 (昭和12) 9月には大阪市西淀川区佃町に亜細亜銑鉄工業所を設立していた。[注3]

村川は、信夫に用件を語りはじめた。

「いま、私は上海で亜細亜鋼業廠という会社をやっています。戦争が年々激化していく様相を見るに、現在、日本に生産を頼っている釘やネジを上海現地で製鉄から一貫しておこなわないと不安だとかんがえました。幸い、我が社には製鉄からロット針金をつくる工場もありますが、釘やネジをつくるところがありません。中国のひとびとも、釘やネジ、とくにネジ不足で困っている。森澤さんは、ネジ製造では一流と聞きました。多くのひとを助けるとおもって、ひと肌脱いでいただけませんか」

予期せぬ壮大な計画を突然聞かされ、信夫はたじろいだ。

「そんな大掛かりなことは、いままでかんがえてみたこともありません。私の性には合わんのではないかと……」

「そこをなんとか。ネジを必要としているたくさんの人のためとおもって、ご協力願えませんか」

「いまこの場ですぐにどうとも言えませんし、すこしかんがえさせてください」

信夫は村川にそう伝えると、その日はそれで別れた。

  • 日満工業新聞社 編『日満支工業年鑑』昭和14年版 (日満工業新聞社、1938/昭和13) 後25ページに出稿された森澤ネジ製作所の広告。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1115506/1/465 (2025年1月25日参照)

煤にまみれて

しばらくすると、新大阪ホテルにいる村川から電話があった。一緒に食事をしようという。信夫が出向くと、その席で村川は信夫に1枚の小切手を差し出した。額面は100万円。

「これを預かってください」

またもや面食らった信夫は、

「たった二回しか会ったことのない方から、こんな大金を預かるわけにはいきません」

と固辞した。

それを受けて村川は言った。

「それでは、私の妹婿の斉藤四郎という男が芦屋にいるので、彼に預けておいてくれませんか。そして、あなたが必要な分を彼からもらってください。それから森澤さん、ぜひ一度、上海に遊びにきませんか」

ここで信夫の好奇心が首をもたげた。まだ見たことのない上海の地を、この機会に見ておくのもよいのではないか。信夫は上海に渡った。

村川は信夫をおおいにもてなし、会社を案内した。彼の経営する亜細亜鋼業廠は、上海の楊樹浦 (ようじゅほ) に大きな工場を構え、すこし離れたところに15tの平炉、揚子江の向こうにも15tの製鉄所をもっていた。1941年 (昭和16) 時点での同社の資本金は1千万円、生産能力も年額1千万円、職工数は1,300人という規模を誇っていた。 [注4]

信夫には軍との関係はない。なにごとも単純にとらえる信夫は、工場と、そこで働くひとびとを見て「村川の言うように、多くのひとが助かる仕事なのであれば、引き受けてもよい」とかんがえた。信夫は村川に応諾の意を伝え、結果、製鉄から製釘、製鋲製螺の一貫作業工場の設備をまかされることになった。

製釘、製鋲製螺の一流企業といえば、地球印の福田製鋲所である。経営者の福田専蔵は、信夫が久金属工業の向かいの地で現在の工場をはじめるとき、銀行の保証人になってくれた恩人だ。( 第60回 ネジ工場ふたたび 参照) 信夫は、福田のもとに相談に行った。

「福田さん。戦争が激しさを増しています。今後、ネジ材料の入手はきびしくなっていきます。福田さんのような大工場の経営は容易なことではなくなっていくでしょう。ここで思い切って、製釘機と製鋲製螺機を売りませんか」

福田は信夫の説得を聞き入れ、20万円ほどで製釘機などの一部を売ることにした。話がまとまり、信夫はいったん上海に渡った。ところが、である。1943年 (昭和18) 7月19日午前2時20分ごろ、大阪府布施市高井田西にあった福田製鋲所の工場から出火。火は衰えることなく木造スレート茸平屋建ての同工場1棟120坪を焼き尽くし、隣接する神山鉄工所の木造平屋建て工場85坪までもを半焼させた。損害額は15万円。[注5] 買い取った機械を信夫が引き取る前に、福田製鋲所は全焼してしまったのだ。

福田夫妻は悄然とした様子で、上海から帰国した信夫を出迎えた。

「火事でこのありさまです。この様子で、先方が承知してくれますか」

信夫は焼け跡をぐるりとひとまわりした。

「相当な被害ですね。たいへんなことでした。しかし福田さん、すぐに機械の手入れをすれば、使用には差し支えないようにおもいます。急ぎましょう」

信夫は福田をはげまし、すぐさま煤にまみれた機械の手入れを進めた。信夫の見立てどおり、ほとんどの機械は使用可能だった。福田は運に見放されたわけではなかったのだ。

ちいさな贈り物

村川は、さまざまな機械の注文を信夫によこした。信夫はそれをかたっぱしから買い集め、上海に送り出した。この仕事のために、信夫は大阪と上海を何度となく往復した。上海に行くたびに、村川は信夫を迎えに行き、たいせつな客人としてもてなした。

信夫が上海に滞在していると、村川は「工場をまわって工員たちを督励してもらえませんか」と頼んだ。工場を拡充していくうえで、信夫の意見を参考にしたかったのだろう。ひととおり工場をまわると、「気づいたことはありますか」と感想をもとめられた。何度も訪問するうち、信夫も上海の工員たちと顔なじみになっていた。

ある日、上海のホテルに滞在していた信夫のもとに、岡村小太郎がやってきた。岡村は、こどものころから上海で育ち、村川とおなじ東亜同文書院の後輩で、村川の経営する貿易商・久孚洋行の支配人をつとめる良きアシスタントだった。[注6]

温厚な人柄の岡村は、信夫にこんな相談をした。

「上海では物価が上がる一方で、一般のひとびとは生活に困りはじめています。このため、現地の中国人工員たちが、会社の賃金に強い不満を抱いているのです。私から何度も村川社長に賃上げを進言したのですが、社長は首を縦にふりません。このままでは、近いうちにストライキが起こるにちがいない。そこで森澤さん、お願いです。あなたの言うことなら、社長はきっと聞くでしょう。ひとつ、掛け合ってもらえませんか」

いく度となく工場をまわり工員たちの様子を見ていた信夫は、その不穏な気配を察していた。信夫は村川のもとを訪ねた。なかなか納得しない村川を前に説得には一晩を要したが、どうにか彼を説き伏せ、賃上げを承諾させることができた。

数日後、信夫は上海の工場の自分の机に、ちいさな包みがいくつか置かれていることに気がついた。開けてみると、飴やお菓子が包まれていた。

信夫が村川社長を説得し、賃上げを実現してくれたのだという噂が、だれからともなく工場に広がっていた。それを聞いた中国人の工員たちが、信夫の机のうえにそっと包みを置いていったのだ。ささやかな感謝のしるしだった。信夫はおもわず涙ぐみそうになるのをこらえた。信夫と現地の工員たちの、ささやかな、しかしあたたかい交流だった。

こうして何度となく行き来した上海への訪問も、第二次世界大戦終戦まぎわの1945年 (昭和20) 4月が最後となった。

信夫は、ネジ工場の利益と村川から受け取った金のほとんどを、大阪淀屋橋にあった斉藤梅花堂という骨董美術品店で、横山大観や富岡鉄斎など、大家の名画や値打ちものの骨董品を買い取るのに投じた。

上海との仕事に打ちこんでいるあいだ、大阪のネジ工場の経営は、北川春美というやり手の友人に一任していた。ところが1945年 (昭和20) 8月の終戦で軍需工場に混乱がおとずれるなか、あらためて信夫が調べると、ネジ工場はいつのまにか20万円の借金を背負い、抵当にとられていた。

しかし戦災はまぬがれた。自分の力ですぐにでも、隆盛の日を取り戻そう。終戦を迎え、信夫はネジ工場の再起を心あらたに決意していた。[注7]

(つづく)

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雪 朱里 [email protected]


[注1] 傀儡:かいらい。あやつり人形。他人の思いのままに使われる者の意。傀儡国家は、ある国の思いのままにあやつられる国家のこと。

[注2] 石川郁二郎については、伊東敦好 筆者代表ほか『塗料人評傳』關東之巻、日本塗料協會、1942年10月 pp.25-28 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1901252 (2025年1月20日参照) を参照。関西ペイントと岩城塗料製造の合併については、前掲書、および『塗料の研究』(101)、関西ペイント、1937年6月 p.1 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3263263 (2025年1月23日参照)を参照した。

[注3] 『華中現勢』昭和15年 (民国29年) 版、上海毎日新聞社、1939 p.606 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1874799 (2025年1月20日参照) 、満蒙資料協会 編『満洲紳士録』第3版、満蒙資料協会、1940 (昭和15) 3版 pp.1742-1743 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1687713 (2025年1月20日参照) 、『全支商工取引総覧』昭和17年度版、中国通信社、1941 p.2、pp.75-76 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8312618 (参照 2025-01-20) 、日本工業新聞社 編『標準機械大観』昭和十六年度、日本工業新聞社、1940(昭和15) p.945 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1231773 (2025年1月20日参照)、工業之日本社編『日本工業要鑑』昭和16年版(第27版)、工業之日本社、1941 (昭和16.)p.1、p.10 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1071135 (2025年1月20日参照) などを参照

[注4] 『全支商工取引総覧』昭和17年度版、中国通信社、1941 p.2、pp.75-76 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8312618 (参照 2025-01-20)

[注5] 「特殊火災報」『大日本警防』17(8)、大日本警防協会、1943年8月 p.32 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1545670 (2025年1月20日参照)

[注6] 『華中現勢』昭和15年 (民国29年) 版、上海毎日新聞社、1939 p.606 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1874799 (2025年1月20日参照) 、工業之日本社編『日本工業要鑑』昭和16年版(第27版)、工業之日本社、1941 ‘昭和16) p.10 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1071135 (2025年1月20日参照)

[注7] 本稿は、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.136-139 をもとに、前掲の周辺資料を交えて参照し、執筆した

【おもな参考文献】
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
『華中現勢』昭和15年 (民国29年) 版、上海毎日新聞社、1939
満蒙資料協会 編『満洲紳士録』第3版、満蒙資料協会、1940 (昭和15) 3版
『全支商工取引総覧』昭和17年度版、中国通信社、1941
工業之日本社編『日本工業要鑑』昭和16年版(第27版)、工業之日本社、1941
『大日本警防』17(8)、大日本警防協会、1943年8月

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影