フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


オペレーターの育成

1931年 (昭和6) のはじめに、茂吉は王子梶原 (現・東京都北区堀船) の自宅隣の空き地に別棟を建てた。「写真植字機研究所」の看板を掲げた自宅は、茂吉がレンズ研究や原字制作に取り組んできた仕事場でもある。平凡な街並みの続く街のなかにある、倒れそうな板塀に囲まれた、決してりっぱではない一軒家。すぐ近くに荒川 (現・隅田川) の流れが見え、川向かいには広く開けた野菜畑、そのあいだにポツリポツリと工場が点在していた。約20坪の別棟を建てたのは自宅の西側。あいだに大きな柳の木をはさんで、すぐ隣だった。[注1]

  • 【茂吉】印字部の誕生

    かつて写真植字機研究所があった付近の荒川 (現・隅田川) の風景 (2024年4月6日撮影)

この別棟で、茂吉は写真植字機の印字者 (打字者) の養成と、写植市場開発のための印字部門を始めた。印字者または打字者は、のちに「オペレーター」と呼ばれた仕事である。[注2]

1929~30年 (昭和4~5) にかけて共同、凸版、秀英舎、日清、精版の各印刷会社に納入した写真植字機は、機能が不十分であり、文字盤にも不備があるとの指摘を受けて、結局は各社でホコリをかぶることとなった。指摘は真摯に受け止めたものの、どこにもない初めての機械を現場に根づかせ、稼働させるには、単に機械を出荷するだけではだめなのではないかと茂吉はおもいはじめていた。機械を使いこなせるオペレーターを自社で育て、機械とともに彼らを納入先に行かせて、先方の仕事が軌道に乗るまで機械の面倒を見ることが必要なのではないか。そうかんがえたのが、印字部門設立のひとつめの動機だった。

もうひとつの動機は、写真植字機の効能を世に知らしめるために、まずは写真植字機研究所みずからがほかの印刷所や出版社から印字の注文を請け負い、写植機での実際の仕事をやってみせようとかんがえたことだ。どんなに言葉を尽くして写植機のすばらしさを語るより、「こういう仕事ができます」と実物を見せるほうがはるかに説得力があると茂吉はおもったのである。

おりしも、パラマウント映画社から外国映画の日本文サイドタイトルの注文もあり (本連載第52回「映画との邂逅」参照) 、写真植字機研究所で印字をする仕事が入りはじめたところだった。こうした実績は、写真植字機のPRにつながると同時に、なかなか売れない機械に代わって収入源となり、社員の生活の安定をはかる役割も果たした。[注3]

  • 印字部設立翌年の1932年6月に刊行された『標準軍歌集 : 附録・陸海軍喇叭譜』(野ばら社)。奥付上部 (写真3枚目) には、この本が写真植字で印字されたものとして、その宣伝が掲載されている。本文には仮作明朝体 (刊行年より推定) が使用されており、楽譜部分は手書きとおもわれるが、その手書き作業ついては野ばら社内でおこなったのか、写真植字機研究所などが版下作成をおこなったのかは不明。野ばら社でかつて手書きによる楽譜の版下作成に従事していた職人の話によると、楽譜の版下作成は、昭和30年代ごろには専門職として、職人の会社があったという。本書はおそらくオフセット印刷で、印刷は北陽印刷 (東京府下王子町船方133、代表 早田茂) [注4] (取材・撮影協力:野ばら社)

精神的教育

1933年 (昭和8) ごろには、印字部は映画タイトル専用機1台を含めて4台の写植機を常備し、男子6人、女子4人の従業員を置くほどになった。ほとんどの社員は住みこみで、15歳から20歳に満たない若者だった。[注5]

このころ「明朝体」をはじめとする原字の制作に取り組んでいた茂吉は、黒い背広を着て机に向かい、朝早くから深夜1時、2時まで、毎日一心に原字を描いていた。[注6] 従業員に彼ほど長時間の仕事をさせることはなかったものの、若い従業員たちは長時間におよぶ毎日の仕事にへこたれて、茂吉の許しもなく、別棟前にあった宿舎にしだいに早く帰るようになり、それが2人、3人、4人……とそろうと街に夜遊びに出かけるようになった。度重なってとうとう茂吉は彼らを別棟に整列させ、「東照宮御遺訓」を諳んじて戒めた。「東照宮御遺訓」は、徳川家康が遺したとされることばだ。

「人の一生は重荷を負って遠き道をゆくが如し
いそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なし
こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事 長久の基 いかりは敵とおもへ
勝事ばかり知て負くる事をしらざれば害其身にいたる
おのれを責て人をせむるな
及ばざるは過たるよりまされり」
[注7]

ふだんは寡黙な茂吉だが、いざ訓戒をはじめると長く、話は何時間にもおよんだ。1932年 (昭和7) 秋、印字部設立翌年に入所した佐治為男 (のちの光画製版株式会社社長) は、たまらず数カ月後に、同僚3人とともに逃げ出してしまったという。[注8]

そういう状況もあってだろうか、茂吉はしだいに、印字部門の若き従業員たちをたんにオペレーターとして養成するだけでなく、礼儀作法を教え、精神的教育をほどこすようになっていった。

この時代、たとえば茂吉の恩人である共同印刷社長の大橋光吉は、自身が経営していた博文館石版部精美堂において1922年 (大正11) に社内に精美堂印刷学校を設立し、みずからの手で若手社員を養成して幹部として引き立て、多くの人材を輩出していた。その精美堂から独立して東京活版所 (のちの精興社) を起こした白井赫太郎が、東京府西多摩郡霞村根ケ布 (現・東京都青梅市根ケ布) に工場を設立し、工場内に精華学舎という徒弟学校を設立したのは1932年 (昭和7) のことである。白井は「よい仕事をするのには、まず知識を広め、人格を磨かねば」と言っていたという。[注9] 写真植字機研究所の印字部門がおのずと若手社員の人格面での育成もおこなうようになっていったのは、時代的な背景もあったのだろう。

「奥に呼ばれる」

〈仕事に向うときは、身も心もすべて打込んでやらねばよりよい結果が得られないし、そのためにはふだんの生活もきちんとしておかねばならない〉[注10]

それが茂吉の信念であり、ずっと実行してきたことだった。そして茂吉は、従業員にもその追随者であることを求めた。

印字部門の設立によって、10人足らずのちいさな町工場だった写真植字機研究所の従業員はすこしずつ増えていった。茂吉は、ほとんどが住みこみだった若い従業員の生活の規範として、つぎの五項目を掲げた。

一、男子は髪を丸刈りとすること
一、質素を旨とすること
一、禁酒、禁煙
一、映画館・喫茶店への出入り禁止
一、みだりに流行歌を口ずさんではならぬこと [注11]

従業員は茂吉を「先生」と呼んだ。社長と社員の関係ではなく、そこには師と門弟のような感情があった。

住みこみ従業員の一日は、毎朝の仕事場のふきそうじから始まった。そうじが終わると先輩順に並んで食事を済ませる。食器は自分で洗って戸棚にしまい、最後の者はお膳をたたんで「ごちそうさま」のあいさつをした。休日は第一・第三日曜のみ。こうした生活を毎日つづけた。当時をふりかえってこの日々が綴られた1965年 (昭和40) ですら〈現在からみれば思いもよらぬことである〉というのだ。[注12] ましてや2024年のいまから見れば、信じられないくらしだろう。

茂吉たちの自宅 (母屋) の玄関には押ボタンがあり、これを押すと印字部のある別棟のベルが鳴るしくみで、このベルで主任以下を数で呼び出せるようになっていた。呼び出されると、従業員たちは茂吉の部屋に向かう。彼らはこの呼び出しを「奥に呼ばれる」と言い、ベルの音に戦々恐々としていた。

〈呼ばれて長い時間がたってから、ひざ小僧をさすりさすり工場へ帰ってくる仲間をたびたび見かけたものだった。それは先生の薫陶の時間が長いので、正座から解放されても容易に歩行できなかったからである。わたくしも一、二度そうした説教を賜わったことがあるが、そのときのことは今も一言一句も忘れてはいない。先生は多事多忙の身でありながら、われわれ従業員には懇々と教えを説かれ、そのための時間のロスは夜とりもどすという方法であった〉

写真植字機研究所の社員だった笠井弘康 (のちに有限会社弘陽写真タイプ社代表取締役) は、こんなふうに証言している。[注13]

奥に呼ばれた従業員が部屋に入ると、それまで一心に原字制作に取り組んでいた茂吉はペンを置き、やおら訓戒をはじめた。先述の「東照宮御遺訓」をはじめ、人間の心構えにまでおよぶ無類に長い訓話をおこなった。茂吉のこうした修養主義は、明治生まれの気質や生い立ちによるものでもあるが、ふたりのこどもを亡くし、写真植字機開発の困難な道をゆくうちに、ますます強固なものとなっていた。修養道場一燈園をもつ西田天香が主唱する「勤勉・節約・奉仕の生活」に共鳴するようになったのも、このころだった。[注14]

写真植字機研究所の仕事・生活、いずれの指導もきめ細かくきびしいものだった。生活指導の面では、几帳面で潔癖ないく夫人が、茂吉のよき協力者となった。[注15]

厳しさと愛情

もちろん若い従業員たちのことだから、なかには反抗する者もいた。

1937年 (昭和12) に写真植字機研究所に入所した飯倉基二郎 (のちに細川活版所厚生課長) はこんなふうに綴っている。

〈ぼくなどは、あまり成績のよいほうでなく、いくたびかしかられ、そしてしかられては腹を立て、みんなと共同謀議をこらし、あるときは腹の痛くなるほど飯を食って番狂わせをさせたり、また、この反対を敢然とやったりして、女中が奥さんにあわてて報告する様子を見て、かげでひそかに喜んだのであった〉[注16]

しかしこんな悪童たちも、一部には逃げ出す者もありはしたが、おおむねは茂吉の意を理解してついていった。それは、茂吉といくの厳しい指導の根底に流れる愛情を感じていたからだ。茂吉の没後にまとめられた『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965) で、写真植字機研究所の元社員たちは口々に「厳しいなかに深い愛情があった」と綴り、当時の教えがのちにずいぶん役に立ったと振り返っている。

いくと茂吉は周囲がうらやむほどに仲睦まじく、茂吉はたびたび「ねえお前!」といくに語りかけた。従業員たちは影でこっそりその口まねをして、顔を見合わせてほほえみあった。[注17]

  • 若かりしころの茂吉と妻いく
    (『石井茂吉と写真植字機』p.47)

茂吉は、ときには夜遅くまで仕事に取り組む従業員に50銭銀貨を渡して今川焼をいっぱい買ってこさせて食べさせたり、彼らの部屋にりんごを放りこんだり [注18] 、夏は冷たいもの、冬はあたたかいものを残業中の従業員と一緒に食べたりもした。 [注19] あくまでも家庭的なあたたかさと、若い従業員たちの成長を期待するおもいがそこにはあった。

こうした印字部門の存在は、その後の写真植字機の普及と市場開発に、おおきな役割を果たしていった。

(つづく)

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雪 朱里 [email protected]


[注1] 伊藤六郎「技術と精神の指導者」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.15、笠井弘康「生前の師の人望を慕って」同書 p.42、本山豊三「昇仙峡の松よりも美しく」同書 p.159

[注2] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.24脚注 1934年 (昭和9) ごろまでは印字者、打字者の名称で呼ばれていたが、1935年 (昭和10) ごろから茂吉が「写植オペレーター」と呼び始めたという。

[注3] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.118-119、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.24

[注4] 野ばら社は、1929年 (昭和4) 創業の出版社 ( https://www.nobarasha.co.jp/nobarako/ )。図画図案、音楽、書道の書籍を出版している。『標準軍歌集 : 附録・陸海軍喇叭譜』(画作者 今村嘉吉、編輯兼発行者 志村文蔵、発行 野ばら社 / 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1121351) は、印字部設立初期の例として貴重な書籍。この早い時期に野ばら社が写真植字で自社の出版物を印刷した理由は具体的にはわからないが、創業者の志村文蔵は徳富蘇峰や竹久夢二など文化人・著名人と交流が深く、あたらしい技術を試したり、取り入れることに積極的な人物だったという。また、野ばら社の所在地 (東京瀧野川西ヶ原68) は当時の写真植字機研究所から2kmほどの距離にあり、近い地域であった。近隣地区であることから写真植字機研究所と知己を得た志村が、写真植字を使ってみようとかんがえたのだろうか。あるいは、1932年 (昭和7) 3~5月に上野公園で開催された発明博覧会を、新しもの好きの志村が見に行き、写真植字機を知った可能性もかんがえられる。

同1932年2月に野ばら社から刊行された中綴じ版の『標準軍歌集』は、カラーの挿絵をオフセット印刷し、文字はその上から活版印刷したものだった。志村文蔵は、カラー印刷の挿絵と文字が一緒に刷れるオフセット印刷で本書籍をつくりたいとかんがえ、写真植字を試したのかもしれない。しかし、印刷を手がけていた北陽印刷は1933年 (昭和8) 12月に解散 (大蔵省印刷局 編『官報』1934年01月25日、日本マイクロ写真、昭和9年、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2958590/1/12?keyword=%E5%8C%97%E9%99%BD%E5%8D%B0%E5%88%B7 2024年10月15日参照) 。このためか、『標準軍歌集』は、1935年 (昭和10) に刊行したもので印刷所が変わり、これにともない、文字は写植から活字に戻っている。(取材協力:野ばら社 大橋真生氏、2024年10月4日)

[注5] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.118-119

[注6] 佐々木松栄「先生の人間味」同書 pp.68-69

[注7]「東照宮御遺訓」東照宮サイト https://www.toshogu.net/goikun.htm (2024年9月29日参照)

[注8] しかし1939年 (昭和14) に再会した佐治に、茂吉は「よく来た。帰ってこい」と言い、佐治はふたたび写真植字機研究所に入所した。佐治為男「恩師石井先生をしのんで」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.71-75

[注9] 『大橋光吉翁 附 共同印刷株式会社史』浜田徳太郎 編集、大橋芳雄 発行、共同印刷 印刷、1958 pp.88-89、田澤拓也『活字の世紀 白井赫太郎と精興社の百年』精興社ブックサービス、2013 pp.94-98、精興社ウェブサイト「歴史」 https://www.seikosha-p.co.jp/corporate/history.html (2024年9月29日参照)

[注10]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.120

[注11]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.119-121

[注12] 飯倉基二郎「石井文字のできるへや」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.19-20

[注13] 笠井弘康「生前の師の人望を慕って」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.42-43

[注14]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.123-124

[注15]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.121

[注16] 飯倉基二郎「石井文字のできるへや」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.20

[注17] 佐治為男「恩師石井先生をしのんで」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.72

[注18] 笠井弘康「生前の師の人望を慕って」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.43

[注19] 佐々木松栄「先生の人間味」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.68-69

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
田澤拓也『活字の世紀 白井赫太郎と精興社の百年』精興社ブックサービス、2013
『大橋光吉翁 附 共同印刷株式会社史』浜田徳太郎 編集、大橋芳雄 発行、共同印刷 印刷、1958
『標準軍歌集 : 附録・陸海軍喇叭譜』野ばら社、1932

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ、株式会社野ばら社、今市達也氏
※特記のない写真は筆者撮影