戦後のNECの成長は、1952年に発足した日本電信電話公社(電電公社、現在のNTT)と
の深い関係がベースとなっている。
電電公社では、1953年度から「第1次電信・電話拡充5カ年計画」をスタート。東京、大阪、名古屋の3大都市間の相互即時通話の実現や、各県庁所在地都市間の市外通話接続待時間を30分以内に短縮するといった目標が掲げられ、そのためにクロスバ交換機やマイクロ波回線といった新技術を積極的に導入することが打ち出された。
当時の日本の通信環境は脆弱であり、電話に加入する際には2年待ちが普通であり、市外通話をする場合には、特急で申し込んでも1~2時間待たないと利用できないという状況であった。戦後における電話の普及と、即時通話の実現は大きな課題となっていたのだ。
高い技術力、通信技術研究でNTTとパートナーに
初期の電話サービスは、電話機にはダイヤルがなく、受話器を上げると交換手につながり、交換手が相手先の名前を聞き、手動で回線をつなぐという方法であった。
電話の普及に伴い、電話番号をもとに自動でつなげることが求められ、電話局にはステップ・バイ・ステップ方式の自動交換機の導入が促進。さらに、より効率的に運用ができるクロスバ交換機の導入へと進化していった。クロスバ交換機は、縦と横に張り巡らされた複数のバーがクロスし、電話をかけると、ダイヤルされた電話番号の情報から、各バーに付いている電磁石を使って、縦と横のバーを接触させて、相手に電話をつなぐという仕組みになっており、日本の電話交換業務の自動化と安定運用を促進するものとして期待された。
だが、同計画のなかで、最も問題になったのがクロスバ交換方式の実用化であった。耐久性に優れ、雑音が少ないというメリットがあるクロスバ交換機であったが、従来のステップ・バイ・ステップ方式では国産化が進み、想定以上に故障が少ないというメリットが生まれ、わざわざクロスバ交換方式を採用する必要がないという論調があったり、米国で製品化されていたクロスバ交換機が日本へ輸出されていなかったり、海外の最新技術情報が入手しにくい状況にあるというマイナス面もあったからだ。
だが、電電公社では、将来の電子交換機への移行を見据えて、最適なクロスバ交換機の採用を強力に推進。同計画の開始と同時に、国産クロスバ交換機の研究開発を開始し、電気通信研究所の共同研究のパートナーとしてNECを指名したのだ。
第1次試作機納入までの期間は1年とされ、NECの方式設計者はわずか7人という体制で開発をスタート。ここでも、NECが持つ高い技術力と、「やり切る」という技術者の意地が発揮され、1954年11月に第1次研究試作機が完成。通研実験局に納入された。また、第2次研究試作機を開発したのに続き、1956年9月には、国産初の局用クロスバ交換機を栃木県三和局に納入。1957年には、クロスバ交換機の本格的な事業化に踏み切ることになった。1960年には、日本で初めての商用電子交換機を完成させ、三越に納入している。
このころ、米ベル研究所は、日本の数10倍もの予算と、NECの5倍の研究員を投入し、クロスバ交換機の開発に取り組んだものの、完成させることはできずにプロジェクトは失敗に終わっている。この点でも、NECの技術力は世界的に評価され、海外からの需要に対応するために、輸出用クロスバ交換機の開発もスタート。輸出事業でも多大な成果をあげることになった。クロスバ交換機は、それ以降、長期にわたってNECの成長を支える重要な製品となった。
ケネディ暗殺を伝えた日米間初のテレビ中継
一方、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって禁止されていたマイクロ波通信の研究が緩和されると、NECもこの分野に乗り出していった。
NECは、戦前から導波管や発振管などのマイクロ波管の研究を進めていたが、戦争中はレーダーの研究開発に切り替えていたため、マイクロ波の研究は先進国に比べて遅れていた。また、戦後の経営が苦しい時期であり、研究費が乏しく、技術者は極めて少人数で、悪戦苦闘の連続を強いられながらの研究が余儀なくされた。
1952年には、第1次試作機が完成し、それを電電公社総裁が視察することになった。だが、直前に試作機の調子が悪くなり、テレビの画像が白黒反転して伝送され、関係者一同が冷汗をかくという一幕もあったという。
数々の苦労の繰り返しが実り、1953年には、マイクロ波中継回線を実現するマイクロ波pTM多重通信装置を日本で初めて完成させ、東北電力に納入。1954年には、東京-大阪間において、世界初となる進行波管方式による実用超多重電話回線を開通。テレビ中継用も考慮し、伝送容量は360通話路の規模を実現した。従来の多重無線機と言えば、VHFで6~12通話路、pTM式マイクロ波方式でも23通話路であり、3桁の通話路を実現したのは、当時としては画期的な技術であった。
さらに、NECは、1963年には、世界で初めて全固体化(半導体化)マイクロ波通信回線の実用化に成功。固体化マイクロ波通信装置は、電電公社や運輸省航空局、日本国有鉄道(国鉄)、電力会社などに導入されたほか、輸出事業においても主力製品になっていった。NECは、この分野でも他社の追随を許さぬ地位を確立することになったのだ。
さらに、NECのマイクロ波通信技術は、人工衛星を介して通信を行う衛星通信技術へと発展した。
衛星通信分野においては、1963年11月に、日本初の衛星通信地球局として、国際電信電話(現在のKDDI)が開設した茨城宇宙通信実験所に、NECは独自開発の高感度受信装置を納入した。これが、NECの衛星通信分野への第一歩となる。
この受信装置は、同月23日に行われたリレー衛星1号を通じた日米間初のテレビ中継の実験の成功に貢献した。しかも、この日(米国時間の22日)は米大統領のジョン・F・ケネディ氏の暗殺事件と重なり、米大統領の死を告げるという衝撃的なニュースが、実験放送を通じて、米国と同じタイミングで、日本全国にも放映されたのである。
NECは、1964年には、送信装置を茨城宇宙通信実験所に納入。日本から米国ヘのテレビ番組の送信にも成功した。
世界トップの衛星通信技術、発端はたった4人の若手技術者
さらに、大きな注目を集めたのが、1964年10月に開催された東京オリンピックにおけるテレビの国際衛星中継である。
郵政省電波研究所は、NASAの科学衛星(ATS)を使った各種実験を行なうため、東京オリンピックの開催5カ月前となる1964年5月に、鹿島実験局を建設。NECは、出力10kWの送信装置や、直径10mのカセグレンアンテナ(衛星通信用パラボラアンテナ)、駆動装置、監視設備、衛星を捉えるために複雑な計算を行うコンピュータなどを納入。世界初の静止衛星となったヒューズ製シンコム3号を経由して、東京オリンピックの映像を、欧米各国に中継し、オリンピックの感動をリアルタイムに伝えた。この成功は、NECの衛星通信技術の優秀さを世界に示すとともに、海外からも衛星通信機器の受注を数多く獲得するきっかけとなった。
NECの衛星通信技術は世界140カ国で利用され、衛星通信地球局のシェアは約50%。海事衛星用海岸局に限ると60%以上のシェアを持っている。この分野では世界1位の地位を築いている事業なのだ。
そして、現在も、衛星通信技術は進化を続けている。
NECでは、先進レーダー衛星である「だいち4号」(ALOS-4)に搭載した光衛星間通信機器により、4万km離れた低軌道と静止軌道間での衛星間光通信を実現したほか、Skyloom Globalとの協業により、100Gbpsの宇宙光通信技術の共同開発を進め、衛星を活用したグローバルでのインターネット接続の革新を目指しているところだ。
NECの衛星通信技術の誕生を辿ると、4人の若手技術者の地道な活動が発端となっている。
1949年のある日の昼休み、玉川事業場の運動場の片隅に4人の若い技術者が集まった。招集したのは無線部門の森田正典氏。発振増幅共用方式や高感度受信方式を実用化させた人物であり、1983年に発表した日本語ワードプロセッサ用の新入力方式「M式」キーボードの開発者としても知られる。
無線部門、半導体部門、真空管部門から集まった技術者を前に森田氏は、「われわれ若い技術者が新しい技術を考え出し、会社を活性化させるのが一番である」と切り出し、「いま、マイクロ波によるテレビの無線中継を研究している。これは、将来、日本にとっても、会社にとっても、重要な技術になると確信している。ぜひ、協力してもらいたい」と要請したのだ。
4人は、毎日昼休みを利用して、約1年半に渡り、情報交換をしながら、研究を進めていった。それが、のちに世界に広がるNECの衛星通信技術のはじまりだった。NECの衛星通信技術は、玉川事業場の運動場の片隅から始まったのである。
なお、衛星通信技術の生みの親でもある森田氏が、NECの特別顧問時代に開発したM式キーボードは、話し言葉として使用する「和語」が、子音のあとには必ず母音が伴うこと、音読み感じの発音が5種類に分類できるといった特徴などに着目し、独自のキー配列を開発。文字キーはわずか32個であり、子音キーを左手側、母音キーを右手側に分離し、左右交互に打鍵することで、リズミカルな高速打鍵が可能になる。NECによると、入力速度はJISキーボードに比べて2倍になるという。また、人の腕や手の自然な角度や動きにあわせたユニークなレイアウトを採用していたのも特徴だった。なお、M式の名称は、森田氏のイニシャルであるMからつけられたものである。
日本を守るために、世界をリードし続ける先進技術
現在、NECには、ANSという事業領域がある。ANSとは、Aerospace and National Securityの略称で、航空、宇宙、防衛を担当している。宇宙については、のちの連載のなかで触れるが、ここでは、航空、防衛領域の事業について触れてみたい。
NECは、衛星通信技術やシステムインテグレータとしての強みを生かして、航空機の安全なフライトや離着陸を支える航空管制システムおよび衛星運用システムで長年の実績を持つ。
1970年に、飛行計画情報処理システムの運用を開始して以降、航空交通量の増加とともに、NECの航空交通管制システムの導入が拡大。日本における民需の航空管制システムでは50%以上のシェアを持ち、航空自衛隊向けの航空管制システムでは、実に100%のシェアとなっている。
同社の関係者が、「日本の空を守っているのはNECだといっても過言ではない」と言い切るのも間違いではない。
なかでも、大規模な導入事例となるのが、2015年に運用開始となったFACE(Flight object Administration CEnter system)と、2018年から運用を開始したHARP(Hybrid Air-route suRveillance sensor Processing equipment)であり、航空管制のおける情報のデジタル化および共有、飛行状況の把握のためのセンシングの要としての役割を果たしている。
FACEでは、管制官による人での対応を前提とした従来の飛行計画から、フライト・オブジェクト・データをシステムで管理し、人の判断支援をする役割を果たし、人とシステムによる、より安全で効率的な航空交通管理の実現が可能になった。また、HARPは、複数のセンサーから得られる航空機の位置情報を統合することにより、精度を高めた位置情報を管制官に提供し、センシング情報の有効活用が行える。
さらに、GPSを利用した民間航空機の進入着陸を支援する着陸誘導システム「GBAS(Ground Based Augmentation System)」においても実績を持つ。NECでは、1990年代後半からGBASの研究開発を開始。国立研究開発法人海上・港湾・航空技術研究所の電子航法研究所向けに、プロトタイプGBASを開発。2001年に仙台空港、2010年に関西国際空港に設置。2016年には国土交通省航空局から、国内初の実運用システムとして、東京・羽田の東京国際空港向けGBASを受注し、2020年3月から稼働している。
一方、防衛では、防衛管制システム、指揮統制システムや後方支援システム、レーダー情報処理システム、誘導制御・計測システム、水中音響センサー、地上通信システムなどを開発。複雑な動きのミサイルを捕捉する唯一無二のアルゴリズムを搭載した警戒管制レーダーの開発実績などを持つ。
日本に対する攻撃への対応に加えて、宇宙やサイバー、電磁波といった新たな領域においても、攻撃を阻止、排除するための能力を高めており、センサーやネットワーク、リモートセンシングに関連した専門ソフトウェア技術を長期的な戦略に基づいて培っているという。NECグループが蓄積してきた高度なミッションクリティカルシステム構築の技術やノウハウを活用し、「国家の安全保障」と「国民の安全・安心」に貢献している。
NECの森田隆之社長兼CEOは、「サイバーセキュリティや宇宙、量子暗号および量子センサーなどの先進的技術領域において、世界の中でリードする技術を確保することは、自国を守る意味でも非常に重要であり、国際的な平和にも貢献できる」と語る。